Yoko's 人生=旅 on this Blue Planet
高速回転中の青い惑星地球、負けじと走り回る一人の記録。
TV ドキュメンタリー:「4400人が暮らした町 ~吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園~」 2017.8.6. (日)
「4400人が暮らした町 ~吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園~」


広島市の平和公園は、かつて4400人が

暮らし多くの民家がひしめき合う

中島地区と呼ばれた町だった。

昨夜遅く、NNNの「ドキュメント’17」で広島テレビ制作の 「4400人が暮らした町 ~吉川晃司の原点・ヒロシマ平和公園~」 を放映していた。

 番組案内には次のように書かれてある:

広島市の平和公園は、かつて4400人が暮らし多くの民家がひしめき合う中島地区と呼ばれた町だった。ここにあった旅館をルーツに持つ被爆2世の吉川晃司さんが、失われた町の記憶を求め平和公園のいまと過去をたどる。当時の住民が語る町の姿とは?発掘調査で露わになった黒い地層、出土した生活遺品は我々に何を訴えるのか?そこから見えてくる原爆の破壊とは?原爆で一瞬にして町と人々の声が失われた事実を今、改めて訴える。



 アーサー・ビナードさんが、「ぴか」と「ぴかどん」を使う人々の違いについて言及:強烈な気づきだった。核爆弾を「ぴか」と呼び人々には、「どん」の音を聞く時間が無かったのだ。太陽が炸裂したような光と熱の中で、その光以外の記憶は無い人々。「ぴかどん」と呼ぶ人たちは爆心地からある程度離れた距離におり、「ぴか」の後、気絶せず、「どん」の音を聞けた人々だと云うのだ。

 来週の13日(日)には、弾除け神社奉納写真 2万枚の思い~」が24:55から放映される。山口放送制作だ。

番組案内>>

「戦時中、弾除け神社と呼ばれた神社が山口県にありました。
「戦地に行った肉親に弾が当たらないように」家族は本人に内緒で写真を奉納していました。
お国のためと万歳三唱で送り出された出征兵士達。
その陰でひそかに奉納された写真に託された想いとは。
全国各地から奉納された写真は約2万枚。
神社は写真を返す努力を続けていますが、いまなお1万数千枚が残ります。
想いを知るために、私たちも写真の家族を探しました。」(山口放送制作)



お時間のある方はぜひご覧ください。




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コメント
この記事へのコメント
yokoさん 今日は
学生寮の部屋で暫く一緒だった方はあの日体調が悪く、休んでいたそうです。ですがクラスメートの多くの方が亡くなったそうです。彼女も数年前に亡くなりました。
クラスメートの長崎の浦上さんは天主堂の近くに住んでいたのだと思います。
何も語らず、身体の何処かを隠すような感じでした。卒業後数年でお亡くなりになりました。
親しかった文化人類学の祖父江孝男先生のお父様は長崎医大の教授でしたが被爆され、数日後にお亡くなりになっています。
長崎も広島も資料館の入館者が減って来ているのはとても気になります。
2017/08/11(金) 17:37:51 | URL | 相子 #-[ 編集]
相子さまへ:戦争は最悪
相子さま、こんにちは!

> yokoさん 今日は
> 学生寮の部屋で暫く一緒だった方はあの日体調が悪く、休んでいたそうです。ですがクラスメートの多くの方が亡くなったそうです。彼女も数年前に亡くなりました。
> クラスメートの長崎の浦上さんは天主堂の近くに住んでいたのだと思います。
> 何も語らず、身体の何処かを隠すような感じでした。卒業後数年でお亡くなりになりました。
> 親しかった文化人類学の祖父江孝男先生のお父様は長崎医大の教授でしたが被爆され、数日後にお亡くなりになっています。
> 長崎も広島も資料館の入館者が減って来ているのはとても気になります。

貴重なお話をありがとうございます。
卒業数年後に亡くなられた方の気持ちを思うと、咽喉がつまります。
祖父江先生にもそんな体験がお有りだったのですね。
核爆弾により何十万という人々が一瞬の内に人生を変えられてしまったわけですが、その国が核兵器禁止条約に参加しないと云う顛末〜澤地久枝さんが最新の「クロワッサン」誌で長い人生の中でこれほど酷い時代は無かったと話しておられるのが強烈な印象です。このままではいけませんね。
2017/08/13(日) 15:40:39 | URL | yokoblueplanet #-[ 編集]
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