Yoko's 人生=旅 on this Blue Planet
高速回転中の青い惑星地球、負けじと走り回る一人の記録。
田中三彦×小林武史 「震災被害から何を学ぶのか:緊急企画「LOVE CHECK/energy - 今だからこそ、のエネルギーのこと-」」2011.12.19. (エコレゾウェブ)
田中三彦×小林武史 「震災被害から何を学ぶのか:緊急企画「LOVE CHECK/energy - 今だからこそ、のエネルギーのこと-」」2011.12.19. (エコレゾウェブ)

元原子炉製造技術者として福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に関わった経歴のある田中三彦さんは、後にその製造過程で起きた問題を明らかにし、原発の危険性を訴え続けてきた。

元原子炉製造技術者として思うこと

「社会人」ではなく「会社人」だった


小林 田中さんは、元々は日立の原子炉製造技術者でいらっしゃったんですよね。それがいつ頃のことですか?

田中 1968年~1977年までですね。正式にはバブコック日立という会社です。バブコック&ウィルコックス(B&W)というのはアメリカにある原子力発電や火力発電を作っている会社で、ウエスティングハウスやGEと並んで、原発メーカーでは3番目くらいに大きな会社なんです。イギリスにあるその兄弟会社と日立が半世紀以上前に合弁して作った会社だったんです。アメリカのB&W製で有名なのはスリーマイル原発ですね。

小林 僕が今日改めて田中さんにお聞きしたいのは、そもそもなぜ原子力の世界に入られて、何を疑問に思ってそこを出たのか? というところなんです。

田中 入社したのは、1968年。僕が25歳の時です。その頃日本は、何でもかんでもアメリカアメリカ、という時代だったんですね。

それから、戦後の高度成長期の中で、技術的に立国していかなければならないという風潮があった。 その中で、僕らのような工学系の学生というのは"エネルギー立国"ということばかりを考えていた気がします。石炭はあと30年分しかない、石油ももう何年ももたない、これからのエネルギーは原子力だ、とね。

小林 小出裕章さんも同じようなことを仰っていました。

田中 そうでしょう。ただね、僕は小出さんほど明確に原子力を志向したわけではないんです。国のため、世の中のためになるような仕事をしたいということを漠然と考えていた。工学部の学生というのはね、会社に入った後、自分がテレビを作るのか原子力を作るのか選べなかったんですよ。会社に入って三カ月くらいの研修を受けたあとに、人事課から、「君は◯◯課に行って」といわれる。そこで初めて、「僕は洗濯機を作るのか」とか、「あ、原子力なのか」と。そういう時代だった。そこからその人は与えられた仕事をなんの疑問も持たずにやっていくわけです。
小林 なるほどね。原子力専門の会社に入るわけでなければ、そうなりますよね。

田中 僕も大きくはその流れで、原発や火力発電の設計をやることになったんです。9年ほど。だけどね、その9年間の間、僕は社会人ではなかったんです。それは会社の外に出てから気づいたことだけど、"社会人"ではなく、"会社人"だった。社会人と会社人の違いというのは大きい。 例えば会社人は、会社という塀の中に入ってタイムカードを押したら、そこからもう10何時間と、他の社会の人たちから隔絶された世界に入ってしまう。特に工場なんていうのは企業秘密が多いから、外部の人をいれない。逆に、僕の妻はいわゆる専業主婦だったのですが、1日、家で何をしているかというと、買い物に行って、少しでも安くていい野菜を選ぶために八百屋のおじさんと折衝したり、押し売りがきたら追い払ったり、子供の学校に先生の話を聞きにいったり、子供の喧嘩の仲裁に入ったりと、いろいろなことをしているわけです。

小林 そうですね(笑)

田中 だから、世の中の仕組みをよほどよく知っている。銀行にも行っているから、金利がどうの、景気がどうの、なんてことについてもね。彼女たちは社会人なんですよ。僕たち会社に勤める会社人は、ただひたすら会社で仕事のことを考えている。そして、それが偉いことのように思ってしまっている。当時は会社に女性はほとんどいませんでしたから。当時は、鉛筆削りやコピーやお茶は女性社員の仕事、なんていう文化もまかり通っていたんです。だから男にとって会社は居心地がいいわけですよね。今はもう大分変わったと思いますが。

小林 でも今でもそういう男性は多いかもしれないですね。会社人、というね。

田中 例えばね、僕らの設計した原発が福島に実際に建てられるまでには、現地では大変な騒ぎが起きるわけです。「そんなものは怖いから要らない」という人たちと「街が非常に潤うからあった方がいいんじゃないか」という意見に分かれて様々な対立が起こる。けれど、僕らはそういうことまで知らないんです。原発を作っている技術者達は、原発反対と推進の運動をしている人たちの利害関係や本音を知らない。知ろうとしていないという方が正しいかな。もちろん反対派の人たちが大勢いることは分かっている。だけど当時僕は、「技術的に分からない人が反対するのだ」と思っていた。何を根拠にそう思うかというと、たぶんふたつあって。ひとつは、先ほどの"会社人"です。社会を広く見ていないんですね。そしてもうひとつはね、我々は非常に一生懸命働いていた。それこそ1カ月に100時間を越える残業をしながら、寝食を忘れて仕事に没頭していた。

その、自分たちが一生懸命にやっていることを否定されるのは非常に辛いわけですよ。

小林 なるほどね。

田中 だから、「反対している人は、技術的なことが分かっていないのだろう」という傲慢なことを思ってしまうわけですね。我々が、非常に難しい計算もして、きちんと造ったものですから、分かってくださいという気持ちになるんです。だから、ちゃんと説明すれば分かってくれるのではないかという思い上がりがあるんです。

小林 そうですね。その気持ちはわかる気がします。

田中 僕がどうして原発の道を選んだのか、というご質問に戻りますけどね。先ほども言ったようにある意味、偶然なんです。僕の場合は会社に入って1年後に原子力の設計と関わるようになった。そこでエネルギー立国を目指すなら原子力がいいんじゃないかなという考えになって、そのまま仕事にのめり込んでいく。あの頃、僕の周りの同僚で、自分から「原発が作りたいです」と手を挙げて入ってきた人は珍しかったと思いますよ。小出裕章さんのように、始めから「原子力の世界で貢献したい」という強い確信を持って道に進まれる方は、僕の周囲にはそう多くなかったと思う。

小林 確かに、小出さんは科学の未来への貢献というところに惹かれて原子力を最初に始められたと仰っていました。でも、このまま続けていくと、彼がやろうとしている科学は人を裏切ることになるだろうということに気がついて、原子力を批判するという真逆の立場になられた、と。

田中 そう。小出さんは本当に偉い方だと思います。そこは、僕みたいな機械工学屋と原子力の工学屋さんとの違いだと思います。原子力工学屋さんは、科学的に地球の未来を考えるという姿勢で、ひたすら原子力と向き合ったんでしょう。でも機械屋っていうのは幅広く何でもやる。会社の配属次第で、原発も作るし、自動車も作る。当時はオートメーションという言葉が出始めてね。カラーテレビやクーラー、自動車など、目覚しい進歩を遂げていた時代だった。機械工学者達はそういう最先端の技術への憧れみたいなものも強かったわけです。

小林 よく分かります。日本がぐっと"豊かさ"の方向に向かっていく時期ですね。 日本は今以上に、行政は行政、技術者は技術者とそれぞれ分離していて、そこが縦に繋がっていた。上から「こういう方向でいくのだ」と降りてくると、それを受けた現場はその是非を検証することもなく、遮二無二になる。これは、原子力工学の世界だけではなかったと思うんですね。

田中 そうですね。

小林 でもそれは悪いことだけでは決してなくて、本当に戦後の日本人は、一生懸命頑張ってきた。みんな、とても努力していたわけで。だからこそ、反対されれば傷つくし冷静に全体を捉えることも難しくなるわけです。田中さんもジャズがお好きとのことだからお分かりになると思いますけれど、みんなそこそこに痛みと汗と涙のブルースがあると思うんです。そしてそのまま定年まで走り続けた人達もたくさんいると思う。だから、その中で田中さんが「もしかしたら違ったのでは?」と思って方向を変えるということをされたのが本当にすごいと思っているんです。

原子炉圧力容器の"ゆがみ矯正事件"について


小林 田中さんは著書『原発はなぜ危険か』(岩波書店)の中で、「原子炉圧力容器の"ゆがみ矯正事件"」について書かれていますね。福島第一原発4号機用原子炉圧力容器が製造過程のミスで楕円形に歪んでしまったけれど、それを一から作りなおす時間も費用もないということで、無理やり体裁を整えてそのまま原発に使用してしまった。この出来事の詳しい話や、それを当時、原子炉圧力容器設計技師として関わっていた田中さんが公表しようと思うようになった経緯を知りたいのですが。

田中 僕が20年以上前にいわば"外部告発"した問題ですね。僕の会社が造った東電・福島第一原発4号機用の原子炉圧力容器の断面が、丸い円になっていなければいけないものが少し歪んで楕円に出来上がってしまった。それをこっそり直して東電に納めた。

小林 まずは、その事実のどのあたりが問題だったかということなんですが。

田中 歪んでいたって直せばいいじゃないかと思うかもしれませんが、形の問題じゃないんですね。材料(鋼)の強度に関わる大変な問題なんです。原子炉圧力容器というのは、その中でウラン燃料が核分裂を起こす部分なので、すごくエネルギーの高い中性子が鋼に向かって日夜当たっているんです。要するに、時々刻々被ばくし続けている。そうするとどうなるかというと、金属の中が言ってみればガサガサになってしまう。小林さん、カルメラってお菓子をご存じですか?

小林 はい、なんとなく。

田中 あれは硬そうに見えるけれど、落とした瞬間にポロっと割れるでしょう。ああいう割れ方のことを脆性破壊(ぜいせいはかい)というんです。鋼には脆性破壊と延性破壊(えんせいはかい)というものがあってね。延性破壊というのはギューッと引っ張ると大げさに言えば飴のように伸びて、伸びた部分が細くなったあとにプチンと切れる。けれど、脆性破壊というのはそうではなくて、ちょっと引っ張ったらパリンと割れる。

ガラスの割れ方がそうです。原発の原子炉圧力容器というのは、最悪の場合、この脆性破壊を引き起こす可能性があるです。原発を運転しているときに圧力容器がバリンと割れたら、これはもう大事故です。だから、それが起きないように、設計技術者たちは、どんな材料でどのように造ったら割れない圧力容器になるかということを、一生懸命考えるわけです。

小林 どれくらいの大きさのものなんですか?

田中 問題の4号機の原子炉圧力容器は直径が5.6メートルくらい、高さが20メートルくらいで、重さが600トンくらいのものです。容器の断面が丸くなるように造るというのは、直径の短いところと長いところの差を何%以内に収めないといけないという法律上の約束事があるんです。最後は国の立会いのもとでそれ(真円度)が検査されます。検査で国が「これは安全な原子炉圧力容器だ」と認めてくれないと、一から作り直さなくてはいけないんです。そうなればそれには大体、3年くらいの年月と、今のお金で何百億円という費用がかかるんです。

それはもう会社が潰れてしまうような損害になりますよね。それで、極秘のうちにそれを文字通り丸く収めてしまおう、となるわけです。その作業によって材質が劣化してしまうことは無視してね。

小林 それはつまり、安全性が低くなることを承知のうえで、とりあえず楕円の容器を丸くして、何とか取り繕ってしまったということですか?

田中 はい、そういうことです。歪みを直すために、本来ならやってはいけない余分な熱処理をやって材料を痛めてしまっているんですよ。なんとか形は丸く収めたけれど、その代償として圧力容器の材質を著しく劣化させたんです。あれが30年、40年と持つかというのは非常に疑問でした。まあ、今回の地震で壊れてしまったのでその心配がなくなってしまったのですが。

「原発の安全神話」

技術者の倫理観を変えていかなければならない


小林 田中さんも含めてですが、その頃の関係者の方々はそんな危険な行為に対して何の疑問も持たなかったのですか?

田中 それが会社人と社会人の差だったと思うんだけれど。あの頃、会社人だった僕は、歪んだ容器をきれいに丸く直す計算に貢献することで一生懸命だった。それが上手くいって僕は社長賞をもらったりした。それで、天狗にすらなってしまうんですよね。 もちろん僕は、その作業によって原発の炉心の一番重要な部分がどれだけ劣化してしまい、実際に使ったらどういう危険を背負うのかということも当然会社には警告したんです。けれども、その責任は会社が背負うし、そうならないよう研究して対応していくと言われたら、それ以上には追求しなかったわけです。もともと、その問題を起こした原因は、我々の設計にではなくて製造部のミスだったんです。そうなると、僕としては製造部を助けたみたいなところがある。要するに、鼻高々なんですね。

悪いことをしたという責任感がない。これは組織の一員の心理というものでしょうか。自分で責任をとらないんですね。上の命令に従ったのだから、悪いのは上だろうという責任構造があって。責任感の喪失というのかな。見事にそれに僕はかかってしまっていたのだけれど。後に非常に反省して、僕は真実を明かそうという行動に出ましたが......。けれどもその時は会社のために頑張ろう、という気になってしまっているんですね。恐ろしいことですね。

小林 その組織構成というか、心理というのは、分かるような気がします。

田中 そしてこういうことはもちろん社内の極秘案件になるわけです。まず、社外に絶対に漏れないように、その作業についてはほんのわずかな人間しか知らないようにして進めていくんですね。毎日密かに会議をして、席に戻っても同僚にもばれないように気をつける。敵を欺くにはまず味方からということですね。

小林 しかし原子炉圧力容器なんて重要なものについてそんな細工をして、それを東電に納品するときにばれたりしないのですか?

田中 それがばれないようにまた様々なことをするわけです。

原子炉圧力容器を納品するには、国と東京電力の立会い検査があるのですが、製造の最終段階で歪みが発見されたので、まず立ち会い検査を延期する必要がありました。そこであの時は「溶接部分に問題が発生したのでやりなおしたい」と、ウソのない内容にすり替えて、立会い検査を数カ月先に延ばしたりしています。説明しなければならない関係者は大勢いますから、嘘に嘘を重ねていくわけですね。 そうやって、歪みを、技術的には脆性破壊が起きる可能性さえある、非常に危険な方法で直してしまったわけです。それを東電に、ひいては福島県に「はい、うまくできました。安全です。」と言って収める企業の神経がおかしい。

小林 その「会社人」だった田中さんが、どのようなきっかけで会社をお辞めになって、むしろ会社に反旗を翻して真実を明かそうと思うようになったのですか?

田中 僕の原発に対する考え方が「この瞬間に変わったな」と思ったのは、チェルノブイリの原発事故が起きたときです。それまでは実はあまり真剣に原発の是非について考えたことはなかったんです。1977年に会社を辞めたのは、それとは全く別な理由でね。簡単に言うと、もっと勉強して学者になりたかったんです。その辺りはあとで詳しくお話しますが。 まず、会社を辞めて2年後の1979年にスリーマイルの原発事故が起きました。でもあの段階でも、「原発というのは、ちょっと間違えると怖いことになるなぁ」と思う程度で、あれは極めて例外的な事故だと考えていたんです。そうしたら、1986年にチェルノブイリの原発事故が起きてしまった。

事故の直後に、ウラジミール・シェフチェンコさんという映画監督がチェルノブイリの事故現場に入って映像を撮影しているんです。ある程度の危険は承知だったろうと思いますが、当時のソ連の人々はたぶん放射能に対して今よりもっと無知だったのではないかと思います。それこそ、今でいうなら福島原発の1号機や3号機の屋上で長時間ロケをしているようなものですから、その後まもなく撮影クルーはみなさん亡くなってしまいました。文字通り、命がけで撮影した大量のフィルムがあるのですが、それを当時の竹書房の社長さんが素早く手に入れられて・・・。その映像をもとに写真集をつくるので、写真にキャプションを付けて欲しいという依頼を私が受けたんです。それで、シェフチェンコさんが撮影した何時間もの映像を食い入るように見ました。凄絶な事故現場や周辺の町や村の様子を。

小林 それはとても貴重な映像ですね。

田中 僕が一番、心を動かされたのは、やはり町や村の人々の姿でした。それまで普通の暮らしが営まれていたはずの町が、一瞬にしてゴーストタウンと化してしまっている状況や、一度は避難した農家の方々が、暮らす場所も食べる術もなくなって結局は家に戻り、とても汚染度が高いであろう川で釣った魚を食べたりしている現実とか。そういう映像を観たときに、今まで僕が科学や技術という側面だけで見ていたのとは違う原発というものが、そこにはあった。原発と社会というものが非常に脆弱な壁でプロテクトされていて、それがひとつ破れるととんでもないことが起きるということを改めて強く感じました。

小林 あの時、日本の、いわゆる原発推進派の方々などはどういう反応をしていたんでしょうね。

田中 電気事業連合会が何を言ったかというと「日本の原発は安全です」「あれは違法な運転をしたから起きた事故です」ということでしたね。要するに、企業と電力会社と国が一体化した原子力ムラが、安全キャンペーンをするわけです。

毎日のように、1ページ1億円もするような大広告を新聞なんかに載せてね。僕はそれを見ながら「そんなバカなことはないだろう」と思った。日本の原発だって、チェルノブイリのような事故は起こり得る。むしろもっと悪い事故の可能性だってあるかもしれないぞ、と。原子力ムラがそれを隠すなら、これは僕も発言しなくてはいけないと思ったんです。

小林 態度を表明しようと決意されたんですね。

田中 まず、『世界』という雑誌に「原子炉安全基準の虚構」という論文を書きました。内容的には当時ほとんど論じられていなかった原発の「安全神話」について書いたものです。実際その言葉も使っています。チェルノブイリの原発事故に対する表明のようなつもりで書いたんですね。それを見て、原発関連のシンポジウムに声をかけられたのが1988年のことです。原発推進派2人と、原発反対派2人が壇上で話し合うというものでした。僕は広瀬隆さんと一緒に、原発反対派の人間として壇上に上がりました。

小林 そこで、14年前に行われた、原子炉圧力容器の歪み矯正事件のことを初めて公にされた。

田中 はい。あの時、僕は相当思いつめていましたね。自分が元いた会社に殺されるかもしれないなと、冗談じゃなく思いました

小林 とても衝撃的な告発でしたよね。本当に、身を捨てる覚悟で挑まれたことだと思います。

田中 あの時のことをよく内部告発と言われるのですが、正確には違うんですね。僕はもう会社を辞めて外部の人間になってしましたから。いまなら内部告発を守ってくれる法律があるようですが、僕の場合は一度会社を辞めてしまっているし、時代もちがうし。だから一人で戦わなければならない。正直、非常に怖かった。色々な人から気をつけろという注意を受けましたよ。僕はオートバイに乗っていたけれどブレーキホースを細工されていないか確認しろとか、地下鉄のホームに立つ時はできるだけ壁際に立てとかね(笑)

小林 本当にそんなことがあるんですか。

田中 実際、脅迫電話は何度もありました。当時の電話にはナンバーディスプレイなんて機能はありませんから、防ぎようがありません。たまには本当に用事があったりするから、電話が鳴ったらとりあえず受話器を取らなければならない。

ひどい時は電話がかかると10本に1本は脅迫電話でしたね。「家族の命をどう思っている?」なんていうね。あからさまに「死ね!」なんていう電話も来ましたよ。僕の義理の兄が日立製作所の某工場に勤めていたのですが、名字の違う彼のところにまで「義理の弟の発言を止めろ」という電話がかかってきました。名字がちがうのにどうして親戚であることがわかるのか。大会社はCIAみたいなところだと思いました。

小林 すごいな。そういうプレッシャーもある中、ある種、過去に自分がしてきたことを否定しなければならないということを続けるのは容易ではないですよね。

田中 僕は、チェルノブイリ原発事故をきっかけに、技術的な見解でも、倫理的な意味でも、日本の原発をなんとかしなければいけないと思いました。同時に、日本の技術屋の倫理観みたいなものも、変えていかなければならないなと思ったんです。先にも話しましたが、良くも悪くも技術バカが多くて、自分の造っているものが社会でどういう風に使われ、社会をどう変えていくかが分からない人が多い。技術屋というのは、自分の造ったものがモノになったり使われていったりするのを面白いと思うんですね。でも、面白いということと、そういうものを本当に造っていいかということは同じじゃない。時には越えてはならない壁がある

小林 そういう問題というのは僕はあまり知らなかった。非常に興味深いところですね。
......田中さん、実はもう、今日はお約束頂いていたお時間を既にかなりオーバーしてしまっているのですが、まだまだ聞きたいお話がたくさんあります。よろしければ近々、続きをお話できませんか?

田中 僕もまだ半分も話せていません(笑)。ぜひ続きをまたお話ししましょう。

「人類の滅亡」を考える

1945年8月6日にパンドラの箱が開いた


小林 今回は、エコレゾ ウェブ始まって以来初の対談2日目を設定させていただくことになりました。2度もご足労いただき本当にありがとうございます。早速ですが、先日のお話の続きを聞かせてください。チェルノブイリ原発事故の後、90年代に入ってから日本でも「原発は本当に大丈夫なのか?」という論議が生まれたと思うのですが、その心配は段々と下火になっていきますよね。

田中 そうですね。

小林 そのとき田中さんは一体どんな想いで、反原発の活動をされていたのかなと。

田中 前回もお話をしましたが、僕が会社を辞めた理由は、学問をやりたかったからなんですね。簡単にいうと当時は工学系の学者になりたかった。

小林 なるほど。どういったジャンルの学問をしていらっしゃったんですか?

田中 結局、いろんな事情でそういう道にはいけませんでしたが、昔から脳に興味があったので、その後はとくに脳の勉強をしたり翻訳をしたりしてきましたが、ものを書いたり翻訳したりする仕事をする中で、様々な人に出会い、考える世界がずいぶん広がってきたんです。一番大きかったのは吉福伸逸さんとの出会いですね。彼は、元はアメリカで活躍していた有名なジャズ・ミュージシャンですが、70年代の終わりにに、アメリカから『タオ自然学』という本を携えて日本に戻ってきました。

オーストリア生まれのF・カプラという現代物理学者が書いた本で、高エネルギー物理学といって、宇宙の解明なんかをする最先端の学問と仏教やヒンドゥー教のような東洋の神秘主義とのパラレル、相似性みたいなものについて書いた一冊なんです。当時、アメリカでは大ベストセラーになった本なのですが、ある人を介して、その翻訳を一緒にすることになったんです。吉福さんとの出会いから、今まで私が住んでいた世界とは全然違うことを勉強するようになって、またいろんな分野の科学者達ともたくさん会うようになりました。

それまでとは違って、科学的なこと、文化的なことをいろいろ吸収できたんですね。

小林 なるほど。技術者として原発政策に関わり、その後、科学や文化、思想の世界でご活躍されている田中さんが、3.11以降の今、どういうことを感じて、我々のとるべき道というものについてどういうことを伝えていきたいと思っていらっしゃるのかということをお聞きしたいのですが。

田中 原発の問題に関していうと、今回の原発震災の被害から何かを学ばなければならないと思うんです。その学び方が、国と東京電力は全くだめだと僕は言いたいんです。 核という問題には特別な意味があってね。僕が非常に影響を受けた思想家にアーサー・ケストラーという科学思想家がいて、僕は彼の本を一冊翻訳したのですが(『ホロン革命』工作舎)、その本の最初に、「人類史上、最も重要な日はいつかと問われたら、躊躇なく、1945年8月6日と答える」という一文があります。その日まで、人間は個としての死、要するに自分や知り合いの死というものだけを考えていればよかったが、広島の上空で太陽を凌ぐ閃光が放たれて以来、われわれは人類そのものの種の滅亡を意識して生きなければいけなくなった、と彼は書いている。それはわれわれの「新しい意識の夜明け」なんだと。今の80代、90代の人に聞くと、人類が破滅するという概念は原爆が落ちるまで全くなかったね、と言います

人類が滅亡するなんてことはSFの世界だったと。だけど原爆を経験した瞬間から、これはいずれ人類が破滅するんじゃないかと思うようになったと。 そういう意味で1945年8月6日は非常に重要な日だとケストラーは言った。キリスト教の暦でB.C.やA.D.などがありますが、それよりももっと重要な暦として1945年を「Post HIROSHIMA」=P.H.元年としようと書いています。つまり、その日パンドラの箱があいて、人間は苦を背負って新しい夜明けを迎えたんだということですね。

小林 その言葉、その感覚は非常によく分かります。

田中 原子力というのは平和利用であろうと戦争利用であろうと、人類滅亡という影を背負っていると思うんですね。

人が死ぬ数だけが重要なのではなくて、社会的、経済的なインパクトが長く続くという意味でも原発事故や原爆というのは非常に大きいものです。日本は、原爆を経験した、それも2度も経験した唯一の国なんです。 アメリカは9.11で瞬間的に3000人の人が亡くなったということをよく強調します。瞬間的に、を強調するのはなぜかというと、イラン・アフガニスタンという戦争ではもっともっと大勢の人が亡くなっているわけでしょう?きっと、その弁解もある。瞬間的に殺すなんていうのはとんでもないことだ、だからアメリカは攻撃を続けるよ、ということですね。でも、瞬間的ということでいうなら、広島・長崎では瞬間的に合わせて20何万人近くの方が亡くなられた。そういうむごたらしいことが起こったにも関わらず、日本というのは、なんというか寛容でありすぎると思うんですね。

いまでは多くの人が、原爆のことはすっかり別のところに置いて、原子力を受け入れてしまっているんですね。

小林 確かにそうですね。震災後、原子力に対して一気に上がった懸念みたいなものも、既にもう薄れてきているような感じもありますよね。

田中 そうです。今回の事故で改めて気づいて、勉強をしなければいけないと思い始めていたことを、みんなすっかり忘れて元に戻ろうとし始めている感じがします。原発の事故は10万年に1回だから、などという専門家もいるけれども、僕が生きている間にも、スリーマイル島、チェルノブイリ、福島と、3回の大事故が起きた

90年代なんかはね、原発推進者と話をするときに、運転ミスが起こるかも、津波が起こるかも、地震が起こるかもと言っても、「お前らの言うことは悲観的過ぎる」と薄笑いを浮かべられていました。 今はさすがにそれはなくなりましたね。少しお灸を据えられた感じにはなったでしょう。でも、もっと徹底的に変わっていかないと。ドイツなど他国は決断が早いですよね。その決断がどうして日本はできないのかと思います。

小林 僕が感じるのは、日本は、政治と思想というものが、乖離(かいり)しているということ。本当は政治という、この国をどういう風にしていくかというところには、思想や哲学というものが入り込んできてもちっともおかしくないと思うのですが、そういうものがほとんど感じられない。まあ、戦時下や戦後の貧しい状況ではそんなことを掲げなくても、目指す所や感じることが自然と共有できていたのかもしれませんが。それ以降の、経済が安定してからの日本というのはバランスをとっているだけという気がするんです。

田中 たしかに今の日本の政治家はこれといった思想を持っていない感じがします。それは教育の問題もあると思いますが。"バランス"とおっしゃったけれども、本当に日本はそれを心がけ過ぎていてね。しかも偏らずにバランスがとれているかというとそうでもなくてね。僕は日本のメディアにも非常に失望しているんです。大手の新聞やテレビ局が、本当に正しいことを言っているか、あるいは信念を持っているかと言ったら、どうもそうではないですね。NHKもダメ。 震災後、海外のメディアからはたくさん取材が僕にきました。でもNHKは一度も接触してこない。知り合いの記者から、反原発の人のコメントはとりませんと、はっきり言われました。反原発の人間は出さないようにしている。

今回の原発事故がどんな事故だったか、まだ検証が十分なされていないうちに、国は、IAEAに都合のいい事故報告書を出した。NHKはそれをアニメーション化して、あたかもそれが真実であるかのごとくテレビで解説する。僕らから見るとその論理はおかしいよと思う部分がたくさんあるのですが。NHKは国の主張を金をかけて詳細に報道し、国と違う見解を持つ人間の声は聞こうとしない。 そういう意味で、NHKは大本営の発表機関のようになってしまっている。大手の新聞社もほぼそれに近い状況ですね。今回本当によくやってくれたなと思うのは東京新聞(中日新聞)です。あそこは双方の意見をきちんと調べて報道していて、東京新聞というのはこういう新聞だったのかと、今回のことで感心しました。

小林 メディアの問題というのは本当にいろいろと耳にします。でもそういう"メディアのだめなところ"は、当然メディアが報道することがないわけですから、明るみになりにくい状況なんでしょうね。

田中 今の世論というのは、バランスがとれているようで実は、批判をするという人がいなくなっているのが実情ジャーナリズムが死んでいるというのかな。政治家も思想がない、新聞社も思想がない、そういう中で持ちつ持たれつの関係があるようで、非常に残念で仕方がないですね。

今までの世界を諦める勇気が必要

福島原発の1号機は地震で壊れていた



田中 あと僕が最後に聞かれてもいない重要な話をしておきますと(笑)、今、後藤政志さん、渡辺敦雄さんという元東芝の格納容器の設計者の方々と一緒に、どういう事故が起きたかという解析をしているんです。概念としては市民調査だね。国の調査には任せられないし、言葉で批判していても埒があかないから、技術理論的な計算などをしているんです。おそらく国の言っている事故ストーリーとは全く違うストーリーになると思います。

小林 一体どのあたりが違うんですか? 簡単にご説明いただける内容じゃないかもしれませんが......。

田中 いえ、簡単ですよ。今回の福島原発の1号機は津波にやられたのではなくて、地震の時点で壊れている、ということです。

おそらく地震の揺れで1号機の圧力容器に出入りする重要な配管が折れてしまい、そこから高圧な蒸気が漏れ出してメルトダウンに入ったと思われるので、その分析をしています。 それから2号機は間違いなく、原子炉格納容器の外側が地震で溶接部が破壊していますね。そこから水素が漏れ出してして爆発していると思うんです。3号機についてはちょっとよくわからないから僕らに分析ができないのだけれど。1号機と2号機については僕らが考えうる原因を分析して計算してシュミレーションしているんです。

僕らが言っていることが正しいかどうかは分からないけれども、少なくとも、こういうストーリーも事故調査委員会は考えなければいけないことなんです。もしこれが違うというのなら、それを証明しろということです。国の事故調には任せられない

小林 国は津波による被害が大きいと言っている。 でも田中さんたちは地震の段階ですでに大きな事故が起きていたと予想されている......。

田中 なんでその違いにこだわるかというと、津波が非常に大きかったからあれが事故を悪化させたことは間違いないけれども、そういうことに関係なく、地震が起きてから津波が来るまでの50分くらいの間に、原子炉はかなり損壊していたということがとても重要なんです。そのことをどうして国が言わないのかというと、それを言うと日本各地にある全ての原発の安全性に及ぶからなんです。

今僕らが問題にしているのは浜岡原発です。東海地震が起きると言われていますよね。東海地震の予想されている震源地というのは、御前崎の地面の下です。その真上に原発が5つ乗っかっている。そのうちの3号機と4号機は福島の1~3号機とまったく同じ形をしています。 福島のメルトダウンの原因が津波ではなく地震だったとしたら、同じものが浜岡にきたらどうするのですか?という話になるわけです。海岸から60キロ離れているから津波の被害はないだろう、だから福島よりましだろう、という論理は非常に危険だと言いたいんです。 福島原発は地震で壊れた」と認めたら、残りの原発もすぐに止めなければならないという事情があるために、国は容易には認められないわけですね。だから何もしないうちからIAEAに向かって「地震が問題じゃなかった」と報告しているわけです。

僕はね、正義感というわけではなく単純に、嘘を言っている人達に、嘘を言うのはやめろと言いたいわけです。その嘘が、たいして社会に影響を及ぼさない嘘ならどうでもいいけれど、この先30年の間には必ず起きるであろうと言われる東海地震を前にして浜岡原発に関わる大きな嘘は見逃せない。 30年後に起こる、という意味じゃないですよ。向こう30年間に、ということは、明日起きても不思議じゃないわけです。そういう切迫した問題を見過ごしてあとは運にかけるというような選択をしているこの国に腹が立つわけです。 だから僕らは自分たちで調査して、その結果を世間に向けて発表していきたいと思っています。その際はぜひ小林さんにもご協力をお願いしたい。

小林 分かりました。重要なのはその問題をまな板の上にあげるということですよね。

自然とコミュニケーションしながらの生活に戻る


小林 最後に、じゃあ原子力はやめようか、となった時、これからのエネルギー問題について、田中さんはどうお考えですか?

田中 原発はもうこりごりだと。できれば自然エネルギーとか再生エネルギーを模索したい。それは方向として間違えでないし、そうあってほしいと思う。でも、今まで僕らはエネルギーに対して「もっともっと」の世界にいた。そのクセを直さないとね。クセというのは、エネルギーの消費などというライフスタイルの問題をね、僕らはもっと徹底的に考える必要があるのではないかと。小林さん、パッシブソーラーハウスってご存知ですか?

小林 ソーラーハウスにはアクティブソーラーハウスと、パッシブソーラーハウスがありますね。

田中 アクティブソーラーハウスというのは太陽のエネルギーを使いながら住む家。パッシブソーラーハウスというのも太陽のエネルギーを使いながら住む家だけど、基本的に、全く考え方の違うものなんです。アクティブソーラーハウスは技術の世界で、パッシブソーラーハウスというのはどちらかというと思想の世界なんですね。 例えば西日。日本人はみな西日を嫌うんだよね。暑いといって。だから西の部屋には必ずブラインドがあって西日がくると遮断する。遮断すると暑さもしのげて涼しく住めるということですよね。そのときにね、遮断したものはなんだったかということが問題なんですよ。「暑さ」を遮断するということは、非常に美しい、太陽のエネルギーとも言える西日というものを遮断しているんだということなんです。断熱や遮光をして、室内の温度や湿度をコントロールしようというのは、外界で起きていることと切り離して、自分がいる空間を中心に考えた効率なんですね。アクティブソーラーは主にそこをやっているわけです。でもみんながそれをやれば、外界のバランスは崩れてきてしまうと思いませんか? 一方、パッシブソーラーというのは、断熱とか遮光ということではなくて、簡単に言えば、外界の情報を全部取り込んでいこうという考え方なんです。

建築家はその家の後ろに木があるのか、土手があるのか、近くにどんな家が建っているかなどを全部考えながら、その環境の中でどんな家を建てれば快適に過ごせるかということを考えていくんですね。外界で起きている自然現象を遮るのではなくとりこむことで快適な空間づくりをするわけです。 実はパッシブソーラーの考え方にすごく合うのは、障子や縁側です。日本に昔からあるものですよね。雨戸なんかもそうです。台風がくるときや留守をするときには閉めるけど普段は閉めないんですね。普段は、障子や縁側という非常に脆弱なもので外とやんわり仕切っている。風が欲しいと思ったら扉を全開すれば風が通るし、少し厳しいなと思ったら閉めればいいという仕組みになっている。それでも寒ければこたつに入ればいい。日本人は実はずっと実はずっと自然とコミュニケーションしながら住んできたわけです。そういう文化というものを、僕らは全部捨ててきてしまったんですね。
アクティブというのは、行動するという意味でしょう? パッシブというのは受身という意味ですよね。ところがアクティブな空間に住むと、いわゆる機械がいろいろなことを調整してくれる空間に住むと、人間はやることがなくなってその中ではパッシブなことしかしなくなってしまうんです。

それに対して、パッシブな空間に住むとなると、扉を開けたりふすまをあけたりと、いろいろと外の空間に合わせてコミュニケーションをとらなければならなくて、非常にアクティブな生活になるんだね。

小林 面白い。その通りですね。

田中 これから我々が太陽エネルギーなどの自然エネルギーを使うときには、この、パッシブソーラーと同じく、自然とコミュニケーションしながらの生活に戻るというくらいの感覚で向かっていかなければならないと思うんです。 エネルギーだけを効率よく欲しいということなら、はっきり言って原発を使のが一番効率はいいと思うんです。今までの効率主義や、エネルギー消費主義の世界を続けるのであれば、原発依存を続けるのが非常に手っ取り早い。その世界を諦めるので相当な覚悟が必要だとも思います。根本的なライフスタイルを変えないと、「やっぱり無理だね」とまた原子力に戻ってしまうんじゃないかと思っていて。それがこわいと思っているんですね。

小林 ライフスタイルを哲学的、思想的な裏付けをもって変えていくというのは、なかなか難しいことなんだろうなとは思うんですよね。エネルギーの問題は、個人、一人ひとりが考え実践していかなければならないからこそ尚更。でも、やらなければいけないし、今がそこへシフトする時だとおも思うんです。本当に難しいことだとは思うのですが。

田中 だけどね、震災後、感じたことは暗いことばかりでもなくてね。小林さんやap bankがこういう活動をしたり、多くの人々がボランティアに駆けつけたりしたでしょう? その精神が僕はすごく重要だと思うんですね。それすらしない国民ではなかったということでね。困っていることに助けあうことができる国民だったということがすごく重要だと思うんです。

小林 本当にそうですね。

田中 はい。それを日本はやったということで僕はすごいと思っているんだよね。多くの人がそこに共感して一緒に頑張れたということが。後はね、この原発の怖さを実感した我々が、今度は原発に依存していた文化そのものに疑問を抱いて変わっていけないかな、ということを僕は思うわけですよ。

小林 とにかく放射能への恐怖というものをここまで意識したことは今までの日本にはなかったし、これはしばらく消えないと思うんです。先ほど田中さんのお話にもあったように、原発の事故というのは、人間の種の存続そのものに及んでくるような問題だと思いますからね。自分だけのことだけだったらある程度の危険は承知で便利を選ぶという覚悟のしようもあるかもしれないけれども。

田中 それがね、個的な問題と人類全体の問題との違いでね。

小林 世界で唯一の被爆国ということで日本はもっと気付けることがあったかもしれません。でも、戦後は、効率、経済、合理化というところで突き進んできた。戦後はそこが必要だったと思うんですん。でも、70年代以降に日本は豊かさを選んでしまって、危機感というようなことが段々ぼやけて鈍くなってしまっていたのかもしれません。今回の福島原発のことで大分目が覚めたはずなんだけれど、それでもまた、世界の顔色を伺いバランスをとっていこうということばかりをしている。それも大切なことだとは思いますが......。

田中 だけど、日本はもう自信を持って、「私のところは地震大国だから原発を諦めます」と断言をしてしまえばいいのにと思いますね。「そうしてみんなで自然エネルギーの方向に向かうんだ」と発表すれば、日本は新しいモデルとして世界でも注目されるはずです。国か率先して、そういう元気のあるメッセージを出さないということが問題なんだ

小林 そうですね。少なくともまずエネルギーのことに関して、「新しい産業が生まれるから」という発想などはもう捨てて、ということですよね。新しい経済活動にスイッチしていくんだよということよりも、我々は何を大切にして、その想いのもとに世界に先駆けて僕らとしての生き方というものを求めていくと決めたか、ということだと思うんですよね。

田中 みんなで声を出しあっていけば、そうなれるんじゃないかと思います。専門家ばかりじゃなくね、小林さんのようにかっこよく音楽をやっていて若者にも支持されている人がこういう活動をしてくれていることが僕は非常に心強い。これからもよろしくお願いします。

小林 こちらこそよろしくお願いします。今日はどうも、ありがとうございました。

田中三彦

翻訳家、科学評論家。元原子炉製造技術者。
東京工業大学工学部生産機械工学科卒業後、バブコック日立に入社。同社にて、福島第一原子力発電所4号機などの原子炉圧力容器の設計に技術者として関わる。1977年退社。その後はサイエンスライターとして、翻訳や科学評論の執筆などを行う。「柏崎刈羽原発の閉鎖を訴える科学者・技術者の会」呼びかけ人。
2011年12月8日、国会に設置された「東京電力福島原発事故調査委員会」の委員に任命された。


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