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【日米同盟と原発】 第1回「幻の原爆製造」 (2)戦争の死命を制する 2012年8月16日 中日新聞
【日米同盟と原発】 第1回「幻の原爆製造」 (2)戦争の死命を制する 2012年8月16日 中日新聞

東条からの指示

 陸軍航空本部が後押しする形で進められた原爆開発1941(昭和16)年10月、発足したばかりの東条英機(56)内閣は次年度の政府予算案に理化学研究所への委託研究費として8万円(現在の4億円相当)を計上し、財政面でも支援した。

 理研は日本初の研究機関として17年に設立。欧米で最先端の化学や物理などの基礎科学を学んだ新進気鋭の若手科学者がそろっていた。仁科は原爆開発に、そうした若手の部下を起用した。

 東京帝大でウラン化合物を研究した木越邦彦(22)もその1人。20人ほどいたメンバーのうち数少ない生存者で、現在93歳の木越は当時の研究の様子をこう振り返る。

 「仁科先生から『原爆ができると思ってやっているのか』と聞かれて『さあ…』と答えたら『そんな気持ちでやっているのか』と怒られた。やると決めたらまっしぐら、猪突(ちょとつ)猛進型だった」
 それでも木越は、懐疑的だった。「先生が本気で原爆を作ろうとしていたのかは今でも分からない。『研究室に入れば、徴兵されずに済むぞ』と言われたことがある」と証言。「僕は、核分裂のエネルギーが軍艦や飛行機の動力源になるのかに関心があった。爆弾製造は夢物語で、具体的には考えられなかった」と打ち明ける。

 果たして仁科の本心はどうだったのか。

 研究に参加した木越の同僚、武谷三男(30)の著書「原子力と科学者」によると、日本軍が真珠湾を攻撃した2日後の41年12月10日に開かれた理研の会議で、仁科は戦争目的としての原爆に触れず、こう語っている。

 「戦争が終わって比べた時、日本の科学がアメリカに劣ったのでは、甚(はなは)だみっともない。日本国の威信のために純粋研究を進めなければならない」

 ところが、日本の戦局が不利になると、仁科の発言は微妙に変化する。ミッドウェー海戦で日本軍が大敗した数カ月後の翌42年10月、仁科は新聞への寄稿文でこう書いた。

 「今日の時局においては軍備・産業に直接関係のある応用研究に重点を置くべきである」

 それから5カ月後の43年3月、仁科は、ほぼ2年余りに及ぶ研究成果として「原子核分裂によるエネルギー利用の可能性は多分にある」とする報告書をまとめ、陸軍航空本部に提出した。

 学習院大の江沢洋名誉教授(理論物理学)を通じて、本紙が入手した報告書のコピーによると、原爆製造について「連鎖反応が起これば極めて短時間に莫大(ばくだい)なエネルギーを放出する。強力な爆弾として用いられる可能性がある」などと記されていた。

 陸軍を通じ、仁科の報告書を受け取った首相の東条は航空本部総務課長の大佐、川嶋虎之輔(45)を呼んだ。

 防衛省防衛研究所の図書館に所蔵されている川嶋の手記「原子力の開発について」には、東条が指示した内容が書かれてあった。

 「特に米国の研究が進んでいるとの情報もある。この戦争の死命を制することになるかもしれない。航空本部が中心となって促進を図れ」

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