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【日米同盟と原発】第2回「封印された核の恐怖」 (2)悲劇は「日本の宣伝」 2012年9月25日 中日新聞
【日米同盟と原発】第2回「封印された核の恐怖」 (2)悲劇は「日本の宣伝」 2012年9月25日 中日新聞

米、報道を規制

 「核の恐怖」を隠そうとしたのは、原爆を投じた米国も同じだった。

 広島原爆投下からちょうど1カ月たった1945(昭和20)年9月6日。東京・帝国ホテルの一室で、米軍将校らが海外の報道陣を対象に、広島の状況に関する非公式の説明会を開いた。戦争が終わり、日本は連合国軍総司令部(GHQ)の支配下に入っていた。

 説明会で、主に発言したのは米原爆開発「マンハッタン計画」の副責任者、米軍准将トマス・ファレル(53)だった。ファレルは原爆で死ぬべき者は全員死んだ。現時点で放射能に苦しむ者は皆無だ」と述べ、放射能の影響が長期に及ぶことはない、と強調した。

 広島の現地ルポを報じたオーストラリアの記者が原爆投下から数週間後に市内の川で魚の群れが死んだという目撃談をぶつけると、ファレルはこう反論した。「君は日本の宣伝の犠牲になったのかね」

 戦争が終わると、日本は一転して広島長崎原爆を公式に認め始めた。
 終戦翌日の45年8月16日付の新聞は「爆発後、相当の期間、かなり強力なベータ線及びガンマ線などの放射線が存在する。…ある程度以上強い場合には人体に影響を与えることも考えられる」という仁科芳雄の談話を掲載した。広島で被ばくした劇団女優が頭髪をなくし、ついに死を迎えたという記事も。日本国内で米国の「非人道性」を糾弾する論調が高まっていた。

 ファレルは、帝国ホテルの説明会から6日後の9月12日に開いた記者会見でも「現時点で危険な量の残留放射能は測定できない。放射能で傷害を負った人は爆発時の照射の影響を受けただけだ」と、繰り返した。

 米国にとって、予期せぬ結末だったからではない。それどころか、米国は原爆投下前から放射能の影響を分析していた。それを裏付ける文書が米公文書館に残っている。

 「戦争兵器としての放射能」と題された43年7月27日付の公文書。戦時中、機密扱いだったこの文書には、マンハッタン計画の一環として、主要科学者たちが放射能の毒性を検討している様子が書かれている。

 科学者らは「大量に使われるほど大きな傷害を与える」「(攻撃を受けたら)全軍を避難させ、すぐ爆心地の放射線量を測る必要がある」など、まるで自ら言い聞かせるかのように放射能の恐ろしさを語っている。

 報道などを通じ、明らかになりつつあった広島長崎の悲劇。GHQは45年9月19日、「プレスコード(新聞規制)」を敷き、原爆報道を厳しく制限した。米国内でも一部の科学者らが核の残虐性に批判の声を上げており、国際的な非難に広がることを恐れた米国は情報統制を一段と強めた。

 ファレルの上司で、マンハッタン計画責任者の米軍准将レスリー・グローブス(49)が46年6月19日にパターソン陸軍長官に送った公文書にはこう書かれてある。

 「(米国の)医師団による分析が完了するまで、放射能については公式声明を出さないでほしい。強調した表現は、扇情的な報道につながる」

 GHQのプレスコードは、占領期の終わるサンフランシスコ講和条約発効の52年4月まで続いた。その間、広島長崎の被ばく者たちの苦しみは、世間の目から遠ざけられた。

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