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【日米同盟と原発】:第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (5)札束でひっぱたく 2012.11.7. 中日新聞
【日米同盟と原発】:第3回「被ばくの記憶 原子力の夢」 (5)札束でひっぱたく 2012.11.7. 中日新聞

blog 日本の原子核研究者を思想選別した文書。
日本の原子核研究者を思想選別した文書。大学名や専攻とともに「内心は右」「極左」などと書かれている

初の原子力予算

 「アトムズ・フォー・ピース」演説から3カ月ほどたった1954(昭和29)年3月3日。自由、改進、日本自由の保守系3党は突然、衆院予算委員会で戦後初の原子力予算を議員提案する。

 科学技術振興費の3億円の中に原子炉製造やウラン探査などで、2億7500万円(現在の30億円相当)。54年度政府予算案の審議中で、まったくの抜き打ちだった。原子力予算を盛り込んだ修正予算案は翌4日の衆院本会議で賛成多数であっさり可決される。

 原子力予算の策定で中心となったのは改進党で青年将校の異名を持つ中曽根康弘(35)と、TDK創業者としても知られる斎藤憲三56)だった。

 後に首相となる中曽根は51年、日米講和交渉で来日した後の国務長官ダレス(62)に「独立後の日本に原子力研究の自由を認めてほしい」との文書を手渡すなど独立回復の前から原子力の再開に熱を上げていた。
 53年7月には米ハーバード大の招きで訪米。ニクソン政権で国務長官を務めるキッシンジャー(30)が主宰する国際セミナーに参加し、ニューヨークで米財界人と懇談した。自著「政治と人生」で「原子力研究が民間に公開され、経済界が動き始めていた。世界の大勢に遅れてはならないと痛感した」と、当時を回想している。

 中曽根は西海岸サンフランシスコ近郊の米バークレー国立研究所で働く物理学者、嵯峨根遼吉(47)も訪ねている。中曽根の著書によると、原子力再開に何が必要かと尋ねたところ、嵯峨根は「長期的な国策、予算と法律、安定的な研究の保証」と答えた。これが、中曽根らの原子力予算のヒントになった。

 嵯峨根は日本の物理学の祖、長岡半太郎を実父に持ち、戦時中は原爆製造計画「ニ号研究」に参加。後に渡米した経団連会長の石川一郎(68)も嵯峨根に会っている。その石川は56年に発足した原子力委員会の初代委員長代理に就任した。

 原子力予算をめぐり、野党の社会党は反対した。が、当時政策担当の書記だった現在87歳の後藤茂は「予算がついてからは党派を超えて推進するようになった。日本の復興を原子力に託すようにね」と証言する。

 しかし、科学者らにとっては寝耳に水だった。何の相談もなく、政治主導で原子力研究が再開されることに当時、日本学術会議の会長になっていた茅(かや)誠司(55)らは、中曽根や斎藤に「学界軽視だ。予算がついても着手するのは難しい」と撤回を求めた。

 物理学者、武谷三男(42)は著書「原子力と科学者」で、中曽根が「学者がボヤボヤしているから、札束でほっぺたをひっぱたいて目を覚まさせる」と言い返したと記すが、当の中曽根は一貫して否定。「原子力開発10年史」(65年刊行)の寄稿文でも「そんな軽挙な発言をしたことはない」と書いている。

 ただ、55年5月の衆院予算委員会公聴会では「先生方の力では打開できない。政治の力でなくてはならぬ」と発言している。

 米国の「アトムズ・フォー・ピース」に呼応し、原子力再開への第一歩を踏み出した日本。当時の日米の連携ぶりを示すかのような極秘文書がワシントンの米公文書館に保管されている。

 東京工業大の山崎正勝名誉教授を通じ本紙が入手したコピーによると、その日本語文書は「日本に於ける原子核及び原子力研究の施設及び研究者について」の題名原子力予算が計上される直前の54年2月24日、日本政府高官の手によって作成された。その年の9月27日に在日米大使館を通じ国務省へ提供されたことを示す記載があった。

 文書は「原子力問題が面倒な理由の一つは、左翼の反米運動の材料として使われているためである」と指摘。日本人科学者81人をリストアップし「左」「中立」「右」などと、思想選別してあった。日本人初のノーベル物理学賞を受賞した湯川秀樹(47)は「表面は中立、内心は右」と記されていた。

 日米両政府が日本の原子力再開で、科学者の動向に神経をとがらせていたことを示す内容。表紙に作成者とみられる文部省(現・文部科学省)政務次官の福井勇(50)と通商産業省(現・経済産業省)工業技術院長の駒形作次(50)の名前と肩書が手書きのアルファベットで記されていた。

 しかし、原子力予算が世に出た時期とほぼ同じ54年3月1日、太平洋のはるか南東沖で、日米を揺るがす大事件が起きていた。

 静岡・焼津港を出港したマグロ漁船「第五福竜丸」死の灰を浴び、乗組員らが被ばくする「ビキニ事件」。米国の水爆実験が原因だった。

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