「反面教師にしてほしい...」双葉町井戸川町長インタビュー
『福島第一原子力発電所のある福島県双葉町の井戸川町長は1月15日、脱原発世界会議に参加。OurPlanetTVのインタビューに応じた。
井戸川町長は、国が双葉郡に放射性廃棄物の中間貯蔵施設を求めている問題で、12日、その検討を行う電源地域政策協議会を欠席したが、インタビューの中で、今後一切、同協議会には出席しない方針であることを明らかにした。
また、12日の1号機爆発時に、町民の避難を誘導する過程で、第一原発からのチリを直接かぶったことや、その後、線量計で身辺の計測をしていた当時の状況を詳しく説明。汚染の広がりが想像を超えていたため、福島県内では、被曝による危険性があると判断し、避難所を埼玉県に置くことを、自らの判断で決定したことを明らかにした。
井戸川町長は、脱原発世界会議の首長会議に出席。他の自治体の首長に対し、福島の子どもたちの避難を受け入れて欲しいと、別室で話をしたという。「国が定めている基準は上限年間1ミリシーベルトじ。除染には時間も費用もかかる」として「子どもたちを国で避難させてほしい」と涙をうかべて、訴えた。』
**別のソースから以前紹介した双葉町の井戸川町長さんの「死の灰」に関する証言です:まとめて下さった方がいますので、再度アップします。**
2)福島県双葉町に「死の灰」が降った〜井戸川町長の証言 2012/02/19 00:01 (This is 原発危機を考える)">
『1週間ほど前にツイッターにこんな記事が載りました。ツイートしたのはジャーナリスト烏賀陽弘道氏です。烏賀陽氏は「報道災害【原発編】」を上杉隆氏と共著した、現在フリーで活躍しているジャーナリストです。あまりにもショッキングな内容だったのでツイートから抜粋転載してご紹介したいと思います。
<以下引用>
「烏賀陽さんからの福島県双葉町の井戸川町長の話」ツイッターまとめ
(hirougaya 2012/02/12 01:49~02:35:49)
福島県双葉町に「死の灰」が降ったという井戸川克隆町長のお話、あまりに驚いたので今夜のうちにお知らせします。(注:2/12)
同町は福島第1原発が町内にある「立地自治体」。町全体が立入禁止(警戒区域)になって全町民6400人が避難。練馬区くらいの大きさの町。役場は埼玉県加須市に移転。きょう移転先役場で町長に会った。
移転先は埼玉県加須市、生徒が減って廃校になった騎西高校をそのまま使っている。なお500人弱の双葉町民がそのまま避難生活を続けている。そのありさまにも驚いた。アパートなど借り上げ住宅に移っていない人もまだそんなにたくさんいるのだ。
3.11一周年を前に取材が殺到したため「まとめて会見に応じましょう」という感じで町長は土曜日の午後1時半から6時半までずっと質疑応答しっぱなし。「テレビ」「新聞」「フリー」と3グループ別。頭が下がる。ありがとうございました。
「町民は、過去の歴史だけでなく、将来をも奪われてしまった。これはどんな価値よりも大切なものを奪われたということです。それは東京電力の補償など絶対に追いつかない」
新聞テレビは10数人集まっていたが、フリーは私ともう一人しかいなかったので、かなりぜいたくな「半分独占取材状態」になった。ありがとうございました。
「どの方向に」「何で避難する」避難指示が国や県からなかったので、役場の前の旗を見て風向きを見て逃げる方向を判断せざるをえなかった。
それまでの毎年の避難訓練は「電源が失われたが、3時間くらいで復旧、冷却装置が作動」というシナリオだったので、まったく役に立たなかった。
町民はやむなくバラバラにマイカーで逃げるしかなかった。福島県川俣町が避難を受け入れることを決めたので、防災無線で「とにかく川俣町へ」と必死で呼びかけた。
12日、町民が脱出するなか、双葉厚生病院の前で入院者や近くの老人ホームのお年寄りをバスに乗せる誘導をしていたら、最初の水素爆発が起きた。「ズン」という鈍い音がした。
12日「ズン」という鈍い音がした。「ああ、とうとう起きてしまった」と町長は思った。数分して、断熱材(グラスファイバー)のような破片がぼたん雪のように降ってきた。「大きなものはこれぐらいあった」と町長は親指と人差し指でマルをつくった。
双葉厚生病院は福島第1原発から2キロしか離れていない。雪のように断熱材(?)の破片が降るのを、300人くらいの町職員や医師、看護師らが呆然と見つめた。町長は「これでもう終わった」と思った。
福島第1原発から断熱材(?)が雪のように降り注ぐ光景を、町長は「それはそれは不思議な光景だった」と振り返る。「そういう映画にでも出てきそうな光景だった」。なすすべもなく、服についた「チリ」を手で払い落とすしかなかった。
そうした「福島第1原発からのチリ」を浴びた町長に「それは危険なものだという認識はあったのですか」と問うと「今でも『もう終わった』と思っている」と応えた。「それはどういう意味ですか」と問い返すと「鼻血がとまらない」と言った。
「ずっと鼻血がとまらない。鼻をかむと今でも血が出る。たらたら垂れることもある。もう乾燥しているんだかなんだかわからない」
「胸から下、すね毛まで毛が抜けてつるつるになった」「銭湯で隣に座ったじいさんが『おい、女みたいにすべすべになっているぞ』というので気づいた」「陰毛だけは大丈夫だった」「体毛がないと肌着がくっついて気持ちが悪い」
3月11日直後から東電の職員は2人が町役場に来ていた。ふだんから担当している広報課の職員だ。しかしメルトダウンや水素爆発の情報は何も教えてくれなかった。今から思うと顔面蒼白で、知っていたのかもしれない。
補足。政府が決めた「ベント」も何の予告もなかった。町民が真下にまだいるのに、ベントが行われた。自分たちを日本国民と思っているのか。まるで明治維新の前からそのままではないか。
「死の灰」の話にびっくりして「その場(双葉厚生病院前)に何人くらいいたのですか」と町長に問うた。町長は「300人くらい」と応えた。絶句した。若い職員、医師、看護師もいたという。町長は「バス一台分乗っただけだった」と残念がった。
「12日の水素爆発のあと、福島第1原発から断熱材の破片のようなものが雪のように降ってきた」。その後飯舘村にいた人が「空気中を繊維のくずのようなものがキラキラ舞っていて、あれ、外なのにおかしいなと思った」という証言と一致する。
水素爆発のあと、福島第1原発から双葉町に降り注いだ断熱材(グラスウール)の破片のようなもの。これはどう考えても「死の灰」ではないのか。
12日、「ズン」という鈍い音がして、福島第1原発が最初の水素爆発を起こしたあと、数分後に、双葉厚生病院前に断熱材(グラスウール)の破片のようなものが「ぼたん雪のように」降り注いだ。=烏賀陽注:これはどう考えても「死の灰」ではないのか。
ちなみに、3月12日の最初水素爆発のあと、福島第1原発から双葉町に「ぼたん雪のように」降り注いだ断熱材(グラスウール)の破片を町長が目撃した双葉厚生病院は、同原発から2キロしか離れていない。
12日の水素爆発の映像を見ると、煙は北~北西方向に流れているので、双葉町長が「双葉厚生病院に降下物が降った」という証言は矛盾しないのです。> 福島第一原発 爆発の瞬間 2011 03 12 1536頃発生: youtube@さんから
<引用以上>
続いて、これを裏付ける話として氏のツイートからさらに引用
(2011年3月18日NHKニュースより 福島県双葉町・双葉厚生病院に水素爆発の降下物が降った目撃談)
福島県の福島第一原子力発電所の1号機で、今月12日、水素爆発が起きた際、およそ3キロ北にある双葉町の病院で患者を避難させていた職員が、NHKの取材に、当時の様子を証言しました。
双葉厚生病院では、今月12日、医師や職員らが寝たきりの患者などを避難させようとしていた午後3時半すぎ、福島第一原発の1号機で水素爆発があり、原子炉建屋は骨組みだけを残し屋根と外壁が吹き飛びました。
NHKニュースより一部
病院の薬剤師、杉内敏行(スギウチトシユキ)さんは、当時、屋外で避難の対応にあたっていた様子をカメラで撮影していました。
杉内さんは「突然、大きな音とともに強い爆風を体に感じた。
空から断熱材のようなものが降ってきて体についたとき、『ああ、これでもう終わりだ』と思ったが、患者を安全なところに避難させなければと急いで避難を続けた」と話していました。
また、病院の建物の中で衝撃を感じたという看護部長の西山幸枝さんは、「どーんとものすごい音がした。地震とは違う音ですぐに原発だと思い、とても恐ろしかった」と話していました。
双葉厚生病院では、職員など20人余りが、放射性物質を洗い落とす「除染(ジョセン)」が必要なレベルの被ばくをしていたことが確認されていますが、福島県では「いずれも健康に影響の出るレベルではなかった」としています。
これでNHKニュースと「福島民報」記事、烏賀陽の取材に井戸川克隆・双葉町長が語った内容が、場所、時間、降下物の詳細とも一致したことになります。さて、どう思いますか。
<引用以上>
「福島民報」記事というのはこれです。
【双葉町の双葉厚生病院】突然の避難指示(福島民報2001/3/12)
「・・・ドーンという破裂音が振動とともに伝わる。双葉高グラウンドで患者を自衛隊ヘリに乗せる作業に追われていた職員は耳を疑った。原発の建屋の断熱材とみられる白い破片がパラパラと空から降ってきた。それが何なのかが分からず、触った職員もいた。・・・」
<引用以上>
長々と引用してきましたが、私はこの話を聞いて、ビキニの水爆実験で被ばくした第5福竜丸のことを思い出しました。「空から白い雪のようなものが降ってきた」という話です。これは吹き飛んだ珊瑚礁の破片でした。これとそっくりな話です。双葉町の場合、おそらく水素爆発で吹き飛んだ建屋の破片だと考えられます。もちろん放射性物質とともに降り注いだはずです。
雪のように「死の灰」が降ってきたという話までは、恥ずかしながら今まで知りませんでした。烏賀陽氏の発言でようやく知りましたが、調べてみると当時の報道にもわずかに残っていました。それにしても、マスコミ的にはほとんど取り上げられていない話だと思います。今、あらためて当時の緊迫した状況を思い返しています。』
3)〜福島県双葉町 井戸川克隆 町長 退任挨拶〜 & 双葉町井戸川町長 退任 記者会見 2013.1.23.
『双葉町は永遠に』
〜福島県双葉町 井戸川克隆 町長 退任挨拶 2013.1.23. 〜
『私たちは前例の無い避難という過酷な状況に置かれています。いつまでも海原を漂流するわけにはいきません。早く上陸地を国が準備して、再興できる日を求めてきました。しかし、時間が足りませんでした。
放射能のないところで平和な、皆が集える町ができることを祈り町民の安寧を願って、私は本日、双葉町長の辞職申し出をしました。
私の今までの取り組みから次のことを申し上げたいと存じます。
1 事故に負けない
原発事故で負けるということは、今のまま、何もしないことである。
双葉町民には負けてほしくない。勝ってそれぞれ生き抜いてもらいたい。今はそれぞれの地に離れて住もうとも、廃炉が完了して故郷から放射能の危険が去り、自然と共生出来るようになったら再結集しよう。
我が子どもたちへ、この悔しさを忘れることなく、何としても生き抜いて何倍も幸せな双葉町を再建していただきたい。そのためにも負けないで学び、求められる人になれ。世界の雄になってもらいたい。
(1) 負けないということは以下のことを忘れないこと
①避難してくださいと国から頼まれたこと。
②東電と国は事故を絶対起こさないと言っていたこと。
③町と県と東電には安全協定があること。
④事故は我々が起こしたものではないこと。
⑤正式な謝罪と見舞いがないこと。(形のあるものではないこと)
⑥自分の権利は自分以外に行使できないこと。
⑦被ばくさせられたこと。
⑧放射能の片付けをさせられること。
⑨20msv/yで町へ帰ること。(一般公衆の限度は1msv/y以下)
(2) 勝つためには何をしなければならないか
①事故の原因者を確定すること。
②我々の受けた損害のメニュー作成すること。
③損害の積算をすること。
④回復の請求をすること。
⑤回復の限界と代替を請求すること。(仮の町、借りの町)
⑥立証責任の不存在を共有すること。
⑦気づくこと。
⑧水俣の住民の苦難を学ぶこと。
⑨広島・長崎の住民の方に聞くこと。
⑩避難先の皆さんの恩を忘れないこと。
⑪多くの町民が健全な遺伝子を保つこと。
⑫ウクライナの現実を確認して同じテツを踏まないこと。
(3) 町民の力を結集すること
①役割分担をすること。
・汚染調査 ・除染問題 ・賠償問題
・住居問題 ・職場問題 ・健康問題
・墓地問題 ・学校問題 ・中間貯蔵施設問題
などの調査研究する組織をつくり町民の不利益を解消すること。
②事故調査委員会をつくること
事故の報告書には避難を強制された住民の実態が語られていない。外部に任せていたらいい加減に処理されてしまうので、委員会を町独自に構成して正しい記録を残さなければならない。
2 主張する権利を行使する
①見守り隊の組織
②法律家の組織
③文書学事の組織
④ボランティア活動組織
⑤被ばく被害者団体の組織
などを組織して国民の主権と被害者の復権を勝ち取らなければならない。
3 この世には先人の教えがある
(1) 温故知新
歴史から新しい発想が出てくる。自分が直面している問題について語られています。遠くは私たちの祖先である標葉藩が相馬に滅ぼされたこと、会津藩が長州に負けたこと。しかし、負けても滅びる事もなく私たちは生きてきました。先人達に感謝し、これからは私たちが町の存続を引き継ぎ後世に繋がなければなりません。今度の事故は前例がありません。今は子どもたちを放射能の影響によるDNAの損傷を避けて暮らし、幾多の困難に負けずに 双葉町の再興に向かって、生き延びましょう。
(2) 人生に五計あり
中国、宋時代の朱新仲が教訓として伝えた人生の処世訓とされるものです。生計、身計、家計、老計、終計があり、生き抜く考えが記されています。
(3) 八正道と言う道
昔、釈迦がインドで行われていた求道について、新しい道があることを説いたとされています。
正見 : 正しい物の見方
正思惟 : 正しい思考
正語 : 偽りのない言葉
正業 : 正しい行為
正命 : 正しい職業
正精進 : 正しい努力
正念 : 正しい集中力
正定 : 正しい精神統一
今の私たちにはこのような精神にはなれません。この言葉は東電と国あるいはこの事故を被害者の人権を無視して矮小化しようとしている勢力に猛省を促す言葉として捉えてほしい。願わくば、双葉町の子どもたちに人生の教訓の一部として、心に刻んでほしい。
この事故で学んだことは多い。我国でも人命軽視をするのだと言うことがわかった。国は避難指示と言う宣戦布告を私たちに出した。武器も、手段も、権限もない我々はどうして戦えるだろうか。
白河市にアウシュヴィッツ博物館がある。ナチスがユダヤ人を毒ガスで虐殺したことは衆目の事実だ。福島県内では放射能という毒で県民のDNAを痛めつけている。後先が逆だ。この状態から一刻も早く避難をさせること以外に、健康の保証は無い。その後に十分時間をかけて除染をやれば良い。
人工放射能に安全の基準を言う実績が少ない。20msv/yで住めると言う人が家族と一緒に住んで示すことが先だろう。その安全が確認出来たら福島県民は戻ればいい。これ以上モルモットにするのは、外国の暴君が国民にミサイルを撃つのと変わり無い。
福島の復興なくして日本の再生はないとは、人口減少の今、将来の担い手を痛めつけていては、真に福島の復興には繋がらないと心配している県民は少なくないと思う。双葉町は原発を誘致して町に住めなくされた。原発関連の交付金で造った物はすべて町に置いてきました。
原発の誘致は町だけで出来ない、県が大きく関わってはじめて可能となる。私たちは全国の人たちから、「お前たちが原発を誘致しておいて被害者面するな」という批判を受けている。私たちはどこにいても本当の居場所がない今、苦悩に負けそうになりながら必死に生きている。子どもたち、高齢者、家計を支えなければならないお父さん、お母さんたちの悲鳴を最初に菅総理に訴えた。変わらなかった。そのために私は野田総理に国民としての待遇を訴えたのです。しかし、今の町民の皆さんは限界を超えています。何とか国には町民の窮状を訴え、町民には叱られ役をやり、マスコミに出されるようにしてきました。
県にも窮状を訴えています。最近も質問をしました。回答は具体的な内容ではなく失望しました。知事は福島の復興のために双葉町に中間貯蔵施設を造れと言うので、双葉町の復興はどうするのですか、と聞くと答えてくれません。そこで、踏み込んで私に町をくださいと言いましたがやはり答えませんでした。これでは話し合いになりません。
環境省の局長にどうして双葉に二つの場所を決めたのですかと聞いたら、分かりませんと言いました。では会議録をみせてくださいと聞いたら、後日ありませんと言う返事でした。このようなことで、調査だけで建設はしないからと言われて、ハイいいですよとは言えません。
町には古くから先人が築いてきた歴史や資産があります。歴史を理解していない人に中間貯蔵施設を造れとは言われたくありません。町民の皆さんが十分議論した後に方向を決めていただきたい。若い人に決めてもらうようにしてほしい。
今まで支えていただきました町民の皆様、双葉地方各町村をはじめ福島県内各市町村の皆様、国及び福島県そして事故発生時から避難救済にご支援いただきました国民の皆様、国会議員の皆様、全国の自治体の皆様、埼玉県と埼玉県議会の皆様、県民の皆様、加須市と加須市議会の皆様、市民の皆様、さくら市の皆様、医療界の皆様、福祉関係の皆様、貴重な情報の提供された方、最後に国内並びに世界中からボランティアのご支援をいただきました皆様、この避難を契機にご支援いただきました多くの皆様に支えられて、ここまで来ることができました。心から感謝を申し上げまして、退任のご挨拶に代えさせていただきます。
長い間誠にありがとうございました。
平成25年1月23日
双葉町長 井戸川 克隆
双葉町井戸川町長 退任 記者会見
テーマ:ほっとけない原発震災 - ジャンル:政治・経済
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