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【日米同盟と原発】第7回「油の一滴は血の一滴」(2)「理研は私の大学」 2013年3月26日 中日新聞
【日米同盟と原発】第7回「油の一滴は血の一滴」(2)「理研は私の大学」 2013年3月26日 中日新聞


原子力の梁山泊

 一万トンもの米国産濃縮ウラン購入を決めた首相田中角栄中選挙区時代、新潟三区でライバルだった現在七十八歳の元自民党衆院議員渡辺秀央は「彼に原発への思い入れなどない。演説でも聞いたことがない」と話す。ところが、その田中と原子力は古くから結ばれている。

 時代は田中が故郷、新潟県二田村(現・柏崎市西山町)の尋常高等小学校を卒業する一年前の一九三二(昭和七)年までさかのぼる。その年、村に隣接する柏崎町(現・柏崎市)でエンジン部品「ピストンリング」の製造工場が操業を始めた。

 建設したのは理化学研究所(東京)。戦争末期に陸軍の原爆製造計画「ニ号研究」を手掛け、日本の原子力研究をリードした理研はこのころ、機械加工や化学など多角的に事業を展開する一大コンツェルンだった。

 当時のトップは大河内正敏(54)。東京から柏崎の工場まで時折、足を運び、その名は地元で知られる存在になっていた。

 田中の自著「私の履歴書」(六六年発刊)によると、当時十五歳の土木作業員だった田中は知人から大河内の名を聞き、彼の書生になろうと単身上京する。二日かけて東京・谷中の大河内邸まで訪ねるが門前払いされた。書生をあきらめ、職を転々とした二年後、偶然勤めた建築事務所が理研の取引業者だったという。田中は、この時の気持ちを「私の心は大きく波立った。目に見えない糸に結ばれた大河内先生とのつながりは、現実のものとなった」と記している。

 その二年後、田中は十九歳で独立する。仕事の大半は、理研が発注する工場や鉄塔の設計などだった。「私の履歴書」には理研の「ニ号研究」に関する記述はない。が、政策秘書を二十三年務めた早坂茂三の著書「田中角栄回想録」(八七年発刊)に田中のこんな言葉が紹介されている。

 「理研には電力原子力の大家もいた。梁山泊(りょうざんぱく)だった。当時の理研は私の大学だった。すべての発想は理研に源流を発している」

 理研とのつながりは戦後、田中が二十八歳で政界入りした後も続く。五二年に大河内が亡くなった後、その代わりを務めたのは五四年、「理研ピストンリング工業」(現・リケン)の会長に就いた松根宗一(56)だった。

 松根は日本興業銀行(現・みずほ銀行、みずほコーポレート銀行)出身。電力業界の融資を担当した経験で、原子力やエネルギー問題に精通していた。ピストンリング会長時代、電力各社の首脳にまじり電気事業連合会の副会長も務めた。

 松根を知る日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)の元事務局次長で、現在八十七歳の末田守は「松根さんは田中さんを小僧扱いしていた。田中さんが通産大臣の時からよく会うようになった」と振り返る。

 田中が通産相時代の七一年八月、松根は経営者や官僚、学者らで組織する原子力委員会の視察団長を務め、フランスのウラン濃縮工場を見学。同行した末田は「フランス政府は、視察団を国賓並みに扱った」と言う。

 その二年後の七三年九月、首相として訪欧中の田中は大統領ポンピドゥー(62)との会談で、米国以外から初めてフランス産の濃縮ウランを年間千トン購入することを決める。同行した財界人の中には松根の姿もあった。

 この時の欧州歴訪で、田中は英国で北海油田、ソ連でシベリア天然資源の共同開発に参加するなど海外の資源を買いあさる。中東情勢がきな臭さを増し、豊富な資金力を背景に資源外交を仕掛けた。首相秘書官の小長啓一は「田中さんには資源外交のブレーンがいて、松根さんもその一人だった」と明かす。

 ところが、その資源外交が落とし穴になることを、後に田中は知ることになる。


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テーマ:環境・資源・エネルギー - ジャンル:政治・経済

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