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【日米同盟と原発】: 第8回「勝者の驕り」 (4)IAEAは産業スパイ 2013年4月26日 中日新聞
【日米同盟と原発】: 第8回「勝者の驕り」 (4)IAEAは産業スパイ 2013年4月26日 中日新聞


◆民が政府けん引

 日本の核燃料再処理を例外的に認めた米国。それでも、日本の核兵器転用に対する疑いを晴らしたわけではなかった。

 交渉終盤の一九七七(昭和五十二)年八月三日付の極秘文書。米原子力規制委員会(NRC)は大統領補佐官ブレジンスキーに「(混合抽出法であっても)分離する施設があればさほどの困難もなく、数日でプルトニウムを取り出せるだろう」との懸念を伝えた。

 合意二日前の八月三十日。国務副長官クリストファー(51)が大統領カーターにあてたメモには「スミス(米特別代表)が推薦する解決策は、米議会で批判される可能性があることを承知しておいてください」とあった。

 米国の疑念は八〇年代、青森県六ケ所村の再処理をめぐる日米原子力協定の改定交渉で蒸し返される。

 原子力の平和利用を掲げる日本。しかし、七〇年に発効した核拡散防止条約(NPT)に批准したのは六年後の七六年だった。NPTは国際原子力機関(IAEA)の査察を義務づける。日本は「核の番人」を拒み続け、結果として国際社会に核武装の懸念を抱かせた。なぜ、日本は批准を遅らせたのか。
 当時、科技庁原子力安全局長だった現在八十九歳の伊原義徳は「国際規制を受けることに自民党の先生らの強い反発があった。核のポテンシャル(潜在力)まで否定してはいけないという人もいた」と証言。核保有の五カ国は査察を免れるNPT体制を「不平等」と、公然と批判する意見もあった。

 現在七十一歳で、外務省科学課職員だった高倍宣義によると、批准に反対する右翼団体が外務省前で発煙筒をたいたり、街宣行動を続けていた。「右翼の方と東口の面接室で会った。会わないと収まりがつかなかった」と当時を振り返る。

 高倍はこうも言う。「産業界からも査察が入ると仕事の支障、負担になり、産業機密の漏えいにもなるという懸念が出ていた」

 当時、三菱金属鉱業(現・三菱マテリアル)の技術者で、後に会長に上り詰める現在八十四歳の秋元勇巳。「このころ、ウラン濃縮技術の開発で各社が競っていた。ノウハウが漏れたら、大変だと思った」と話す。

 日本の産業界にとって、IAEAは「核の番人」ではなく「産業スパイ」に映った。外交史料館に残るNPT交渉ファイルが語る。

 七三年五月十七日、東京・飯田橋のホテルで開かれた会議。「産業界に悪影響を及ぼさないようにしてほしい」「ウラン濃縮施設は機密保護が必要」東京電力や日立製作所、三菱金属など電力や原子力関連メーカーの担当者らは、出席した科技庁や通産省の官僚を突き上げた。

 ファイルには、七二年六月にウィーンで開かれるIAEAとの交渉に日本原子力発電の技術者、今井隆吉(43)の同行を計画する外務省文書もあった。朝日新聞記者から原電入りした今井は原子力産業界の論客として知られていた。

 外務省科学課長だった七十八歳の田中義具(よしとも)は「当時、省内に原子力を理解できる人はいなくて、今井さんに頼り切りだった」。日本原子力産業会議(現・日本原子力産業協会)の元事務局次長で、八十八歳の末田守は「原子力は今井さんら民間の専門家が政府を引っ張っていた」と話す。

 戦後の米ソ冷戦下、政官が米国の技術を導入する形で始まった日本の原子力。しかし、めざましい経済成長を遂げる中で、その主導権は電力や原子炉メーカーなど民間の産業界に移る。それが結果として、政府の規制を遅らせ、民の暴走を招くことになる。


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テーマ:軍事・安全保障・国防・戦争 - ジャンル:政治・経済

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