Yoko's 人生=旅 on this Blue Planet
高速回転中の青い惑星地球、負けじと走り回る一人の記録。
高木仁三郎:『ライト・ライブリフッド賞(Right Livelihood Award)受賞スピーチ』 1997年
高木仁三郎:『ライト・ライブリフッド賞(Right Livelihood Award)受賞スピーチ』 1997年


1997年12月8日
ストックホルム、スウェーデン議会にて

高木仁三郎
原子力資料情報室

フォン・ユクスキュル議長はじめライトライブリフッド財団のみなさん!

ご参加のすべてのみなさん!

 本日名誉あるライトライブリフッド賞を受賞すべくここに列席できることは、私にとって大いなる喜びであり、名誉であります。この賞を受賞することは、とくに次の3つの点で私の光栄とするところです。

 第一に、私はこの賞が本当によい仕事をした尊敬すべき人たちに贈られてきたことを知っているからであります。

第二に、私が、科学者としてこの世で最も尊敬するジョン・ゴフマン教授によってこの賞に推薦されたことを知っているからです。

第三に、受賞の喜びを、わたしは最愛の友人マイケル・シュナイダーと共有できることです。

 核化学者として、そして、反核の活動家市民として、私は長い間、日本と世界の原子力計画を分析・批判し、その危険性に警告を発することに携わって来ました。最近では、日本と世界のプルトニウム利用計画を批判し反対することに、エネルギーを集中しています。


プルトニウム--夢物語の始まり

 プルトニウムは人工の元素です。グレン・シーボーグとその同僚が1941年に94番元素の合成に成功し、92番元素ウランウラニウム、天王星=ウラヌスにちなむ)の二つ先の元素ということで、冥王星にちなんでプルトニウム(plutonium) と名付けました。つまり、地獄の王ないし火の燃え盛る世界の元素というわけです。実際にプルトニウムが地獄を生むような物質であることが後で分かったわけですが、この命名は何という歴史の皮肉だったでしょう。

 その合成からまもなく、主たる同位体であるプルトニウム-239(半減期24,000年)が、中性子との核反応によって核分裂を起こすということが分かりました。シーボーグは、プルトニウムを増殖することによって、人類は無限のエネルギー源を手に入れることができる、と考えたのです。彼は自分の核化学を、現代の錬金術と呼び、彼はそれによって、元素の大規模転換という錬金術師の夢、つまりは卑金属から金を生み出すという夢が、ついに叶えられたと考えたのです。

 これは、多くの人々にとって夢物語となり、その後もずっと、プルトニウムが長崎を地獄と化した後も、生き残りました。そして、一部の政府や産業界にとっては今でも、プルトニウムの増殖は夢物語であり続けています。


プルトニウム物語の新しい1章

 シーボーグは、その1958年の著書(『超ウラン元素』、ナツエン社)の第1ページに次のように書いています。

 「プルトニウムの物語は、科学の歴史の中でも最もドラマチックなものだ。多くの理由によって、この稀なる元素は化学元素の中でも、きわめて特別な位置を占めている。これは人工の元素であり、元素の大量転換という錬金術師の夢を最初に実現した元素である。しかも、人類が目で見ることのできた、最初の人工元素である。そのひとつの同位体(訳注:プルトニウム-239)は特別な核特性を持っており、そのことによって、人間にとって圧倒的な重要性を帯びることになった。・・・この元素は第2次世界大戦中に、発見され、またその生産手段も開発された。それはとても特別な状況の下であり、そのことによって、きわめて魅力的で好奇心をそそる物語となった。もちろんこの物語には続きがあり、新たな章が今後書き加えられねばならないだろう。」(下線は高木)。

 私が日本の原子力産業の研究所で働きはじめて数カ月後に、私はこのシーボーグの本を東京(神田)の古本屋で買い、この第1ページの記述、とりわけ下線を施したところにとり憑かれてしまったのです(実際に私はその時下線を施した)。よし、私がその新しい1章をつけ加えるのだと、心に誓ったのです。私はその時、23歳でした。

 たしかに、その時からおよそ4半世紀もたったころ、私は、「今われわれはプルトニウムの歴史に何かを加えつつあるかもしれない」と感じるようになりました。1章と言うほどではなく、1節かもしれないけれど、それは、シーボーグが、そして当時の私が想像もしなかった方向において、です。実は、正直に言うと、彼の本を読み進むにつれ、私は当時からある種の違和感を感じていたのです。 

「実際の原爆の製造は、非常に独創的で輝かしい数多くの基本に関わるアイデアと、設計の詳細にわたる重要なアイデアを必要とした。」

 私の手持ちの本には、当時私が余白に書き入れたメモが残っています。「なんたることか、核兵器をつくるための独創的で輝かしいアイデアとは!」、つまり、私は直観的に私が目指すべきものは、シーボーグや他のノーベル賞の受賞者たちがその「独創的で輝かしいアイデア」によって目指したものとは何かしら異なるもので、それによってプルトニウムの歴史に新しい章をつけ加えねばならないと感じていたわけです。もちろん、この分野でいったい何をすればよいのか、私に何ができるのか、見当もつきませんでした。

 現在においては、私は少し肯定的に、われわれ-マイケル・シュナイダーや私、そしてプルトニウムのない世界に向けて国際的に連帯して活動しているすべての仲間たち-は、プルトニウム物語の最後の章、つまりプルトニウムの脅威に幕を閉じる章を書きつつあるのかもしれない、と感じています。ライト・ライブリフッド賞を受賞することは、この終章を完成させるためにいっそうの努力をするよう、われわれを限りなく励ましてくれます。


民事プルトニウム計画

 プルトニウムは容易に核兵器に用いられる材料物質であり、通常の原子炉で製造されるプルトニウム、いわゆる原子炉級プルトニウムの7~8キログラムもあれば長崎型の原爆が製造できます。

 プルトニウムはまた、よく知られた発ガン性の物質で、シーボーグ自身その本で、「人類に知られた最も危険な毒物」と表現しています。国際的な基準に基づくこの物質の摂取限度によれば、職業的労働者にとっては1マイクログラム(100万分の1グラム)以下が、健康上問題にしなくてはならない量であり、一般公衆にとっては、ナノグラム(10億分の1グラム)レベルが健康上問題にされなくてはならないような物質です。

 日本やフランスのような国における、現在の本格的な民事プルトニウム計画では、このようなプルトニウムを何百、何千万グラムも分離し、輸送し、そして使うことを考えています。しかし歴史的な経験は、この物質から有意のプラスのエネルギーを得ようとするあらゆる試みが失敗に終わったことを示しています。それは、技術的、経済的、政治的な困難のためでした。そして、現在では、民事プルトニウム計画をこれ以上続けるための、何の正当付けの理由も残っていないと考えられます。にもかかわらず、夢物語の遺産が現在も残り続けているのです。

 そのひとつの大きな理由は、官僚制の巨大な惰性です。日本とフランスという、巨大な中央集権的官僚国家が、なぜプルトニウム大国になっていくのか、容易に理解いただけると思います。それがまた、日本の私とフランスのマイケル・シュナイダーが、なぜこれほど緊密に仕事をするようになったかということも説明しているのですが。プルトニウム計画が生き残る第二の理由は、再処理などの契約がすでに多く結ばれていて、これが足かせになっているためです。第三の重要な点として私が挙げたいのは、一般に科学技術者は、自分たちの所属するコミュニティーの利益に反すると考えるようなことに口を閉ざそうとするのです。そのため、彼らは世界の現実から目をそらし、現実の問題に立ち向かうことを回避しようとするのです。もちろん、この第3番目の問題こそ、私がとくに取り組むべき領域であることを自覚しているつもりです。


市民の目の高さからの科学を!

 私の科学者としての最初の仕事は、核燃料の安全性に関係したことでした。私は、セシウムやプルトニウムといった放射性元素の核燃料中の振る舞いに興味を持ち、研究を始めました。数年の後私が知ったのは、核燃料中の放射性物質の挙動が、当初私たちが想定していたものよりはるかに複雑だということでした。私が驚いたのは、われわれ核化学者が、放射性物質の挙動について、まだいかにわずかしか知らないか、というまさにその事実についてでありました。

 60年代の半ばに、日本の原子力計画は本格化してきました。原発建設予定地での住民の反対や原子力問題に関する人々の憂慮が高まりつつありました。しかし私の同僚の科学技術者たちは、自分たちはすべて分かっているのだと言わんばかりの態度で、住民の懸念は単に一般の人々の側の科学に対する無知から来るものだ、として無視しようとしました。その当時は、私は原子力そのものにはそれほど批判的ではなかったのですが、私たちがいったいどこまで分かっていて、どこまでは分かっていないのかという点を明確にし、私たちの関係する科学技術プロジェクトに関する不確かさを指摘することが科学者の最も重要な責任の一つだと考えました。そしてこの問題に深く関心を持つようになればなるほど、私はいっそう強く次のように感じました。「原子力産業の科学的基盤というのはなんと不確かなものだろうか!」と。

 これが私にとって、科学者としての人生の転換点になりました。私は市民の側の懸念を共有したいと思い、ずいぶん考えた末ですが、専門家のコミュニティーを離れ、市民としての科学者、ないしは、科学者としての市民として、市民とともに作業をしようと決意しました。当時私は都立大学の助教授でしたが、市民とともにありたかったということと、自分の作業に専心したいという気持ちから大学を辞しました。

 そして、1975年に東京での原子力資料情報室の創設に参加しました。そこでの仕事は、政府や原子力産業の利害とは独立に、つまりは市民の視点、さらに環境を守るという視点から、政府の原子力計画を批判的に検討し、きちんとした根拠に基づいて、原子力問題に関する情報と見解を一般の人々に理解しやすいかたちで提供するというものでした。


プルトニウム反対の活動と国際協力

 私の最近の活動は、日本および世界のプルトニウム計画の批判とそれに反対することに集中しています。というのも、私はその計画が、現在の世界にとって最大の脅威であり、かつ、プルトニウムはまさに私の出発点でもあるからです。私の社会的活動の最初から、私たちの世代が蓄積し、またこれからもしようとしているぼう大な量のプルトニウムの備蓄に関連して、将来の世界に対する核化学者としての責任という問題が、常に頭のなかにありました。

 私たちの活動は、日本のプルトニウム政策を転換させるということに目標を置いていましたが、同時にこの活動は国際的でなければならないと考えました。実際プルトニウム産業は多国籍的ですし、日本のプルトニウム計画に関連した産業側の活動はプルトニウムや高レベル廃棄物の長距離輸送などを通じて国際的懸念の対象になっていましたから。マイケル・シュナイダーをはじめ、グリーンピース・インターナショナルやワシントンの核管理研究所、ドイツのエコ研究所などと緊密に協力し合い、活動できたことは、私にとってとても幸運なことでした。私たちは、効果的な独特の国際的ネットワークを築くことに成功したと思います。

 この面で私たちが最近行ったことといえば、国際プルトニウム会議の開催(1991)、日本のプルトニウムの海上輸送に関するアジア・太平洋会議(1992)、情報の完全公開要求を含むプルトニウムと高レベル放射性廃棄物の国際輸送に関する反対キャンペーン、再処理を考える青森国際シンポジウム(1994)などがあります。そして今、私たちは、重要な国際的プロジェクトを完成させました。これは原子力資料情報室が組織し、私とマイケル・シュナイダーがそれぞれ代表および副代表となって行われたもので、IMAと呼ばれます。IMAとは、「国際MOX評価」の略で、軽水炉でMOX(ウラン-プルトニウム混合酸化物)を使うことに伴う影響を国際チームによって多面的・総合的に評価しようというものです。この報告書は英文330ページを超えるものですが、原子力資料情報室から入手可能です。

 私たちの国際協力の1例を紹介しましょう。1992-93年に1.5トンのプルトニウムがあかつき丸という輸送船に乗って、フランスから日本まで希望峰をまわりタスマニア海を通ってはるばる運ばれるという出来事がありました。この時には、国際的な懸念が広く表明されたにも関わらず、フランスおよび日本の当局から、ほとんど情報が公開されませんでした。しかし、フランスにおける市民運動の圧力で、ある程度の詳しいデータがフランス政府から出てきました。また、運動側への産業界からの内部告発もありました。これらの情報は、WISE-Parisを通じて、ただちに原子力資料情報室に伝えられ、それを分析した私たちは、さらに足りない情報を日本政府に求めました。そして、政府からの回答は今度はフランスや他の国に伝えられ、そこの運動に寄与しました。もちろん、いつもうまく行ったわけではありませんが。

 もうひとつ、国際協力の成果の例を挙げることができます。1993年の10月に、日本の原子力委員会は、初めて、プルトニウムの在庫量のデータを公開しました。これは、透明性を求める国際世論の成果です。そして、この日本の発表が端緒となって、結局大きなプルトニウム在庫をもつ国(英米仏)はすべて、その後毎年の在庫量を公表するようになりました。その結果として、私たちは、現在、民事用の分離プルトニウムに関して、その在庫と移動に関してモニターし、少なくともある程度の透明性をもって、疑わしい移動がないか転用がないかということをチェックできるようになりました。もちろん現在の透明度は、とても満足できるものではありませんが、数年前に比べたら格段の違いがあると思います。

 現在すでに160トン以上の分離プルトニウムの備蓄が、世界中であることが明らかになっています。再処理が続くため、今もこの量は増え続けています。従って、民事プルトニウム計画からのプルトニウムの量は解体核兵器からの全プルトニウム量を上回り、この惑星上のすべての生命にとっての最大の脅威のひとつとなるでありましょう。このようにデータが明らかになることによって、人々はより的確な情報を得て、脅威に備えられるのです。


今私たちはどこにいるか

 いったいわれわれは何をなし得たでしょうか。もちろん、私は自分たちがやったことについて客観的に評価する立場にはいません。しかし、とくに1995年12月の高速増殖炉もんじゅのナトリウム火災事故と1997年3月の東海再処理工場の爆発事故以降、日本のプルトニウム計画の停滞・縮小は明らかです。フランスの高速増殖炉スーパー・フェニックスも廃止が決定されました。

 情報公開の状況も日本ではかなり改善されました。もちろん現状に私たちはとても満足していませんし、完全な情報の公開をさらに要求しているのですが。

 プルトニウムという重要な問題に関して、明らかに、日本および世界の人々の関心は高まりました。日本では、地方自治体や住民が、政府と原子力産業の秘密主義に挑戦し始めました。彼らは、政府のプルサーマル計画に大きな抵抗を示しています。このプルサーマル計画は、高速増殖炉計画の挫折の後、プルトニウム産業の最後の生き残り策とも言うべきものです。私たちは、私たちが中心になって行ったIMA報告がこの最後のプルトニウム計画に終止符を打つことに貢献できるよう願っています。

この報告書のほんの結論部分だけをここに引用することをお許し下さい。

  「IMA(国際MOX評価)プロジェクトの共同研究者は、次のような結論に達した。プルトニウム分離とMOXの軽水炉利用という路線のデメリットは、核燃料の直接処分の選択肢に比べて圧倒的であり、それは、産業としての面、経済性、安全保障、安全性、廃棄物管理、そして社会的な影響のすべてにわたって言える。換言すれば、プルトニウム分離の継続とMOXの軽水炉利用の推進には、今や何の合理的な理由もなく、社会的な利点も見出すことができない。」

 プルトニウムをとりまく状況は、確かに変化しつつあります。マイケル・シュナイダーと私がこのプロセスに貢献し続けられるとよいと思っています。しかしこのプラスの変化は、幅広い国際的・国内的な民衆の共同作業によってのみ可能となったものです。従って、このライト・ライブリフッド賞の名誉は、これらの人々すべてが分かち合うべきものであります。

 いずれにしても、私たちは、今ようやく、プルトニウム物語の終章を書き始めたのです。プルトニウム物語の長い歴史と夢物語に投資された巨額のお金に対応して、まだ私たちのたどるべき道のりも長いことを知っていますが、私たちが正しい方向に歩んでいることは信じてよいと思います。

 私の受賞の報道の後で、大変多くの手紙、電報、FAX、電話、e-メール、花束等々を日本中の人から受け取りました。それらは主に草の根の運動の人々です。多くのメッセージが単にお祝いの言葉だけでなく、「ありがとう」の言葉を含んでいました。それらは、単に私に対する感謝と言うより、ライト・ライブリフッド賞財団と選考委員会に対する感謝です。これらの全国の人々は、私と同じ運動を分かち合っているわけですから、実際に受賞の名誉を共有しているのです。私は、このことは、財団にとっても名誉なことであると信じます。なぜなら、このように大勢の人々が分かち合う気持ちをもって賞を受け入れることほど、ライト・ライブリフッド賞にふさわしいことはないと考えるからです。

 終わりにあたり、私は一言つれ合いの中田久仁子に感謝の言葉を送りたいと思います。私がもし何かをなし得たとすれば、それは彼女の絶えざる協力と激励によってのみ可能となったものだからです。そして、最後に、しかし、心からの気持ちを込めて、私の同僚の、原子力資料情報室のスタッフの皆さんに深く感謝したいと思います。


高木仁三郎の部屋、原子力資料情報室>>

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テーマ:脱原発 - ジャンル:政治・経済

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